「私の子育て」S1くん

S1が普通の子供と違うのではないかと思い始めたのは、下の子が生まれて一か月も経たずに発熱してしまい、そのまま入院。完全母乳だったため私も一緒に付き添う形で入院せねばならず、実家の母に助けてもらいながらなんとか一週間家と病院を行き来しやっと退院してから。末っ子の遅れていたお宮参りをバタバタと終わらせて、本当にホッと一息ついたところで、確かTVの特集で発達障害の子供の特徴を話していたのを何気なく見ていて不安になったところから始まりました。その時S1は2歳4か月でした。

S1は2014年(H26)7月31日に3480gで予定日よりも一週間早かったですが、我が家の二番目の子ですが、初めての男の子として大きく元気にたった5時間で産まれました。

この時お姉ちゃんは二歳。二歳にしては物分かりがよく、産まれてからずっと全てにおいて教科書通りで育てやすく、何かと優秀な姉。お腹の子が男の子だと知った時から、男子は大変なもの、お姉ちゃんの時のようには上手くいかないものだと自分自身に言い聞かせてきたので覚悟はしていたのですが…なんてことでしょう。我が家の長男はおっぱいを沢山飲み、産まれた翌日から飲むのも上手!よく寝て一か月検診で三か月の赤ちゃんと間違われるほどに大きくなっていました。夜泣きもなく、ガッツリおっぱいを飲んで朝まで爆睡してるなんてこともあり、なんて楽なんだ!どうゆうことなんだ?優秀男児ではないか!!!いやいや…油断してはいけない!こんなのは今だけで大きくなったらきっと大変なはず!!~などと考えながらも、彼に特別手がかかることはなく、すくすくと大きくなっていきました。

その後離乳食も順調で特にアレルギーが出ることもなく、なんでもモクモクと美味しそうに食べる優秀男児。夜は添い乳で寝ていたのですが、男子だし…卒乳は大変かな…っと色々覚悟をしていました。そんな時、彼が丁度一歳の時に下の子を妊娠しました。つわりがひどく、おっぱいどころではなく、トイレで嘔吐の日々…

身体が辛くて、寝かしつけの時に、私が先に布団をかぶって寝てしまったら…なんと母を探す事もなく、父に抱っこされて眠りにつくではないですか。彼の卒乳はあっと言う間で衝撃的でした。泣かないんだ…ちょっと寂しい気もするけどありがとう!っと思ったのを今でも覚えています。

一歳半では喃語はでていて、”まんまー””ぱっぱー”ねーねー”と言葉も出ているように感じていたのでお姉ちゃんの時よりは遅い気はするけどまぁ男子だからこんなもんだよね。っと気にも留めていなかったですし小児科の先生も特に気にする様子もなく普通に通過。実はそこからのS1の記憶があいまいです。

その頃お姉ちゃんは三歳になっていましたが、近所の区立幼稚園に入れるつもりだったのでまだ幼稚園まであと一年。妊婦でつわりがひどい中、毎日公園やジャブジャブ池、児童館へ連れていき、同じ月齢の子よりもデッカイ彼を常に抱っこかおんぶで連れて走り回る日々でしたが、全くぐずることなく、寝てるかご機嫌で転がっているか、知らない人でもニコニコしながら抱っこされていました。大きくて丸っこく、いつもにこにこしてる彼を私の親戚や仲の良いお友達はお地蔵さんみたいだなぁと言いました。沢山撫でたらなんかご利益ありそう!っと沢山撫でて沢山抱っこしてくれました。人が大好きで人に愛される。彼には人見知り時期は全くありませんでした。

下の子が産まれて、バタバタと彼女に掛かりっきりになっている間も彼はぐずったり手をわずらわすこともなく、ただモクモクと一人で遊んでくれていたように思います。TVが好きだったので子供番組やジブリのDVDを見せていたらお姉ちゃんと一緒に並んでずーっと座っておとなしく見ていて、本当に手がかからない子だなぁと感心していました。本当はもっと私が手をかけてあげなくてはいけなかったのですが…当時は日々の暮らしに精一杯でそれが私にできる精一杯でした。

冒頭にお話しした末っ子の入院げきからお宮参りまでが終わって、私がホッと一息ついて、ハッとして彼に向き合った時、彼は既に二歳四か月になっていました。気が付いた時には一歳半で話していた喃語は消えて言葉を発しなくなっていました。目線が合わず、声を掛けても振り向きません。お菓子の袋を開ける音がすると遠くからでも走ってきます。耳は聞こえてるんだ…でも、私があれ!っと彼の顔の前から彼の後ろを指をさしてもそちらを見ようともしません。欲しい物がある時だけ彼は私の手を引いてその場所に私を連れて行きます。つま先立ちで家の中を歩き、くるくると回ってみたり…不思議な行動が色々見られました。彼はすっかり彼の世界の中に入ってしまっていたように思えました。

私は日に日に不安になり、でも誰にもこの不安を言う事が出来ず、ネットで色々調べてしまいました。色々な言葉が飛び交うネット。不安に不安を重ねて真っ黒だったはずの私の髪の毛はその頃から白髪が増え体重が一気に減りました。体重はすぐ戻っちゃうんですけどね。夫に一度だけ”S1と目線が合わない気がするんだよね。”っと言った事がありました。夫は”見たくないだけじゃない?”っと彼の成長の遅さを気にしてる素振りはありませんでした。このまま私が突き詰めて夫にこの不安をぶちまけたら…楽になるかもしれない。いや…でも夫も一緒に不安になってしまったら、一生この暗闇から出る事が出来ないかもしれない…っと勝手に一人で不安になり、それ以上夫に相談することが出来なくなってしまいました。

誰かに話して救われたい。そう思っても誰に話したら良いのか…。いつも困ったとき、悩んだ時に一番に相談するのは母でした。でもこの時、母は長年楽しみにしていた長期旅行中でした。母とは話したいけど旅行で楽しんでるのに水を差しちゃうよな…っと思いなかなか電話することが出来なかったのですが、私の中の不安が行き場を無くしておかしくなりそうだったので申し訳ないけど藁をも掴む思いで母に電話したのを覚えています。

母は一通り私の話を聞くと、思っていた以上に軽く、心配ないんじゃない?男の子だし許容範囲でしょ?っと返ってきました。凄く救われました。私自身がそう言われたいと思っていたから。でも加えてもう一言。

”でももし、もしも彼に障害があったとしても、あなたの子に変わりはないし、捨てちゃうわけにいかないでしょ?何があっても無くても変わらない。あなたはS1の母として頑張っていくことに変わりはないでしょう?”

っと言われました。

大丈夫っという言葉が欲しかった私にとって初めて、もしそうだったらの提案があって困惑しました。もしそうだったらも考えなくてはいけないのか…現実を見るように諭された気がしました。そして自分が母親であること、逃げられないことを再確認した気がします。

それ以来少し気持ちはスッキリしていたのですが、かかりつけの小児科に少し鼻水が出るので薬をもらいに行ったときに何気なく”うちの子、言ってることは理解してるみたいなんですけど発語が無くて~ママとか呼んでくれないんですけど、男の子だしこんなものですかね?”っと聞いてみました。小児科の先生に”そうですね。”っと言ってほしくて。しかし返ってきた言葉は”お母さん、それは普通じゃないですね。”でした。

え???普通じゃないって言っちゃう?未だにこの先生のこの言葉はデリカシーないなあと思いますが、当時の私は怒りMAXっといったとこでしょうか?なんてこと言うんだ!普通じゃないって?私の子が??ってか普通ってなんだよ!!!っと。多分その時保健所に…っとか言われたはずなんですが、全く覚えてないので、自分で聞いておきながらも多分無視して風邪薬だけ処方してもらい帰りました。

ここでまたモヤモヤした気持ちが再燃。毎日の公園遊びで仲良くなったママで、S1とも一緒に何度も仲良く遊んでいただいた方に少しモヤモヤを話してみました。

言葉が出ないこと、目線が合わないこと、不安に思っていること。小児科の先生に普通じゃないと言われたこと。

そのママも実は私が知らなかっただけでうちの娘と一緒に遊んでいたお子さんが療育に通っていることを教えてくれました。私にとってそのお子さんは内気な女の子っといった、本当に普通の何処にでもいるような女の子の印象だったので、とってもびっくりしました。

そんな彼女から見てもやっぱりS1は普通に映っていたらしく、大丈夫じゃない?っとその時私が一番欲しかった言葉をくれました。

その上で、でも不安でしょ?っと気遣ってくれて、もし専門の人に見てもらいたいのであれば、通常だったら保健所に相談して…となるところだけれど保健所は”当たり””はずれ”があって担当者が誰になるかで嫌な思いをすることもあるから…っとご自身の経験も踏まえて”大島みずべ”で相談してみたら?っとアドバイスを頂きました。大島みずべは何度も行ったこともあったので私も行きやすくて、職員の方もおっとりと温かい雰囲気の方ばかりなので相談しやすく、不安に思うこと、今の彼の状態。プロの目から見たらどうなんだろう…私のつたない言葉をゆっくりと丁寧に聞いていただいて、その上でS1を見て下さました。

遊んでる様子を見た職員の方は発達障害があるようには見えないね~よく遊ぶし!っと当時私が欲しかった言葉をくれました。心が救われました。

月に一度、心理士の先生が大島みずべにいらっしゃるので一度ちゃんと見てもらってスッキリしたらいいね。っという話になり早速予約しました。予約は約一か月後でした。その帰りに職員の方にTVの時間を少なくして話しかける時間を増やして下さいね。っと言われたのでそこから一か月、TVとDVDを封印して…どうなのかなぁという不安ときっと大丈夫という期待。いろんなものが混じっていましたがひたすら彼に目線が合いやすい位置にしゃがんで声を掛けていました。するとたった一か月で目線が少し合うようになって、名前を読んだら来るようになりました。言葉にならない声がでるようになり。大好きなあんぱんまんの真似をするように”あーんぱんちーー”っというようになりました。ママっとは呼ばないのにあーんぱんちーは言うんだ…っとちょっと複雑な気持ちになったのを覚えていますが、何でも自発的に言葉が出てきたのは初めてで私的には大進歩なので喜ぶことにしました。

一か月後、たった一か月でこれだけ変わったのならきっと大丈夫!私が声掛けを怠っていただけで今からでも取り戻せる!そう信じてみずべへ行きました。

結果は…自閉症スペクトラムで間違いないでしょう。2016年12月の年末でした。

目の前が真っ白になりました。涙が溢れました。そうか…私の子供は普通ではないのね。少しそうなんじゃないかと思っていたけど、大丈夫!って言ってもらいたかった…それが本音です。

心理士の先生は自閉症ってそんな怖いものじゃないですよ。重い軽いはありますが大抵の方は自立して働いて普通に生活を送っているし、お母さんもご自身が小学生の頃のクラスに一人二人ちょっと変わった子いなかったですか?そんな感じですよ。僕の友達は皆自閉症だし、僕も診断してもらってないだけでそうかも。っと言いました。

え??S1が先生みたいになれる?え?全く想像できませんけど…っと思って聞いていました。

そんなに悲しむことじゃないと言われたけれど、悲しいという感情よりどうしようという感情のほうが正しかったと思います。この先、どうなっていくのか…お姉ちゃんと同じように幼稚園には行けるのか、小学校は?中学・高校・大学・就職・結婚…彼はどれも手に入らないのかもしれない。そしてお姉ちゃんは?大きくなったら彼の介護をすることになるのだろうか…妹は?妹も自閉症なんだろうか…そうなったらお姉ちゃんはどうなってしまうのだろうか…

彼の心配よりお姉ちゃんの心配をしていたかもしれません。

ちなみに心理士の先生にどうして自閉症スペクトラムで間違いないと思われたのですか?決め手を教えてくださいと聞いてみました。そしたら意外な答えでした。

面接したとき、小さな部屋で先生と私とS1だけ、玩具が少しありました。先生とは私もS1も初対面です。先生は私と同じくらいの年齢にみえましたがあごひげを生やしていました。S1は少し玩具で遊びましたが入室して結構早い段階で、先生のあごにひげがあることに気づき、それを触りに行きました。それが決め手だと言われました。

通常言葉が遅い子供は人見知りになりがちらしいですが、S1は言葉が遅いのに全く人見知りをせず、知らない人でも膝に乗ったり手をつないだりしていました。懐っこい子だなぁと思っていましたが、確かに道を歩く普通のサラリーマン風の方にいきなり走って行って手を取った事があり変な汗をかいたことがあります。そうか…それじゃダメだったのね。そう言われれば確かに変だったか…あぁ変だったのか。そうだよ、変だよね?分からないふりをしていたかった。涙が止まりませんでした。もうなんで涙が出るのかも分からなかったです。

面談終わりに大島みずべで子供発達扇橋センターを紹介され、家に帰ってすぐに電話して面接の予約をしました。一か月後でした。泣きながらうちの子自閉症だと言われました。と電話したのを覚えています。

母に結果を報告すると、そうか、頑張るしかないね。っと。私は涙ながらに”うん”っと言うのが精一杯でした。

そしてその夜に夫にも報告しました。私は泣きながらS1は自閉症スペクトラムっていう障害があるんだって。普通じゃないんだって。どうしよう。お姉ちゃんと同じ幼稚園には行けないかもしれない。どうしよう。どうなっちゃうんだろう。と。

夫は私が想像していた反応とは全く違う反応をしました。私とは正反対の笑顔で、

『先の事ばかり考えて今の彼を見ないのは彼に失礼じゃないかな?今彼は笑ってるよ。それが大事なんじゃないの?今、僕らが彼に出来ることを精一杯やれば良いんじゃないの?先のことはその先にあるんだからさ。』

確かに!そうだった。私は先のことばかりを考えて今の彼を見ていなかった。障害という名前に悲観的になって私が悲劇のヒロイン気取りで恥ずかしい!

ここで少し腹をくくれた気がしました。今私にやれることを!やるっきゃない!

どうしようどうしよう?の考えから、今出来ることはなんだろう?に考えが変わった瞬間でした。

以前、みずべで相談してみたらとアドバイスをくれたママ友にも報告しました。

そして息子もそうですが姉の将来が心配になった話もしました。

彼女にも療育に通う娘さんの上に定型発達のお兄ちゃんがいて、兄弟に関して同じ不安を持ったことがあると教えてくれました。母が思っている以上に姉弟の絆は強くて母が思っている心配は不要だと。子供たちを信じるべきだと教えていただきました。この時にはあまりピンとこなかったのですが今となってはなんとなく分かるようになった気がします。

母が思うより子供は子供なりによく見ていて、そして何も考えていないようでよく考えている。だからその時、その時で私が子供たちにちゃんと向き合っていれば大丈夫って事なんだと思います。

その時に彼女の友人の息子さん親子教室に行っていることを教えていただきました。早速調べてその日のうちに親子教室にも電話して面接の予約をしました。こちらも一か月後でした。

療育に通い始めるまでのこの数か月は気持ち的に地獄でした。昨日と変わらない今日なのに。私の子供は障害児だと言われた。それだけでどうしていいのか、何をしたらいいのか。考えがぐるぐるとまとまりません。

私が何かしたからこうなったの?妊娠が分かる前に飲んだお酒のせい?仕事していたから?沢山出歩いたから?私のお腹の中で一体彼に何があったの?私のせいなの?

公園で遊ぶS1と同じくらいの子供たちは笑顔でママーっとママを呼び一緒に遊んでいる。S1は公園の隅で排水溝に砂利をせっせと落としてニコニコしている…。

こんなに違う。違うってなんか悲しい。お姉ちゃんの時には知らなかった周りと違う事への不安と恐怖。

この時期、自閉症関連の本を買いあさりました。自閉症は…私のせいではないのね。じゃーなんで?終わりのない疑問に苦しめられる日々でした。

一か月後、扇橋ココと親子教室、両方の面談へ行きました。タイミングが良く年始に面談をしたので両方とも4月から通えるようにしてくださいました。ココでもおやこでも同じような書類を沢山書かされます。産まれた時に異常はなかったのか?1歳半検診は?育てにくいと感じたことは?何も無かったのに私は今ここにいて書類を書いている。そして息子は…

母のことなど気にも止めてない様子で目の前の玩具でもくもくと遊んでいる。

4月から新しい生活が始まる。覚悟を決めた私とS1との療育生活のスタートです。

おやこ教室に通い始めたころは、直ぐに帰りたくなってしまって、他のお友達が玩具で遊ぶ中、一人自分の靴を持って下駄箱の前が彼の特等席でした。泣いたり騒いだりしません。ただ靴をもって僕は帰る気満々ですよアピール。しばらくアピールするものの少しすると玩具に釣られて中に入るのですが。今遊んでたと思ったら急に再度アピールタイムになったり。とりあえず毎日帰るよアピールしてました。

母の親子教室の最初のイメージは児童館みたいだなーっと思いました。療育ってもっと座ってお勉強みたいな感じなのかと思っていたので、これでいいのかしら?っと思ったのを覚えています。

彼が教室に通い始めた頃、同じくお姉ちゃんも区立幼稚園に通い始めた時期だったので、何かと親子教室には助けてもらいました。S1と一緒に朝、おやこに行って、他の子たちはお母さんと一緒に遊んでるのですが、私が途中S1をおやこに置いて姉の幼稚園の行事に顔を出すことも多々ありましたが、彼を置いて外出する私を彼が振り返り見ることはありませんでした。戻って来たときも、彼がドアまで迎えてくれることも、私を探すこともこちらをチラリとも見ることすらありませんでした。

そんな彼もたった一か月で下駄箱特等席を卒業し、約一年で見えなくなると私を探し、私の手を引き、にこにこと一緒に遊ぼうと誘ってくれるようになりました。まだ言葉は話しませんでしたが、少しづつ指差す方を見てくれるようになったり、言われたことを理解して自分でやれる力がついたこと。何よりこの時期にやっと私という存在を認めてくれた気がします。やっと彼の母になれたのではないかと感じる事が出来ました。

母子同室の親子教室での時間はS1の成長は勿論、母である私の心の成長や強さを作ってくれた時間でもありました。週に2回、親子教室へ行けば子供と遊びながら先生とお話ができる。ただの大人ではない。この道のプロ。たわいのない雑談から困りごとの相談まで次のおやこの日まで先生と何を話そうか考える楽しみが増えました。そしてもう一つ、同じ悩みを持つお母さんたちと出会えた事。自分だけが悲劇のヒロインな気がしていた、孤独な気がしていた日々が、仲間がいる。同じ悩み、違う悩み。みんな悩みがある。みんな涙を沢山流してここに辿り着いた戦友に出会えた事。戦友だから話せること。戦友だから共有できる情報。この当時の戦友は全員ではありませんが今でも連絡を取り合っている方もいます。きっと一生戦友だと私は思っています。

療育内でも言い方は悪いかもしれませんが、やっぱり格差はあって、最初の頃は同じように見えた子供達も三歳を越えると発語の無かった子たちも少しづつ話し始めます。うらやましいと思わなかった日はありませんでした。どうしてウチは発語が無いのかなぁと落ち込んだ日も。でもそんな考えは無意味だと気づけたのもこの時期。発語はないけどウチは時間でトイレに誘うとトイレで用を足せるようになっていました。食事は相変わらず好き嫌いなく何でも食べます。夜も良く寝て睡眠を妨げされたことはありません。皆、悩む場所が違うだけなんです。人と比べて自分の心をすり減らしてはいけない。比べるのは一年前のS1自身。彼の成長、彼の進歩を見ずに他人と比べて何になるのか!そこに気づけると私自身の心が少し軽くなった気がしました。それでも、分かっていても、未だに他人と比べて落ち込む時もあるんですけどね。

S1三歳、この時期、愛の手帳を取りました。どうせとるなら軽度の4度より中度の3度が取れた方が手厚い支援が受けられること、S1は4度なら取れる、発語がないので母の聞き取り調査次第では3度でも取れるかもと先生に言われ、どうせとるなら3度を取りにいくぞ!っと少し彼との生活は大変ですアピールを入れつつ3度と言われても母は傷つきませんよアピール!当日は母のアピールなど必要無かった様子で、発達検査は全くお話にならず。担当になってくれた心理士さんをがっつり無視!逆に当時1歳になっていた同席した妹が一生懸命やっちゃう始末。産まれて数か月からS1と一緒に療育に通い、先生に遊んでもらい、みんなと一緒に遊んでいた末っ子は発語も発達もお姉ちゃんより早かったように思います。療育って凄いんだなっと違う面からも垣間見えました。

そんな訳で思惑通り3度の愛の手帳を入手。一緒に東京都で発行している特別児童扶養手当も申し込み、受給出来るように。診断書も取れました。自閉症スペクトラム障害、中等度知的障害。これがS1の診断名です。療育に1年通って大分気持ちが強くなった母は自分の息子が自閉症という障害を持っていることに抵抗がなくなり、姉の幼稚園のお友達のママにも弟が自閉症であることを少しづつ話せるようになりました。

S1が4歳の年が近づくと母子分離で第三のうみべから第一に移動になります。遂に母子分離!楽しみであるような、先生やママ達と話す時間が無くなることへの不安や寂しさ。とりあえずドキドキです。

どうなることかと思っていた母子分離ですが、始まってみたらなんてことはなく。

特に行き渋りもなく、毎日楽しそうに通えました。お迎えに行けば極上の笑顔で駆けつけてくれます。発語は気分が乗った時に単語が少し出るようになっていましたが、会話としての発語はまだありません。この頃はクレーンだけでなくジェスチャーでして欲しいことをお願いできるようになっていたことと、周りの人の言葉をかなり理解出来る様になって来たことで毎日の生活が一段とスムーズになっていました。

この時期一番寂しく感じていたのが、母子同室だった頃は先生と毎日がっつり話せたのに、行き帰りに少しお話しできるかどうか…くらいになってしまっていたこと。代わりに連絡帳が登場します。A4のキャンパスノートに休みの日や自宅や外出先で起こった珍事件や困ったこと、感動したこと、悲しくなったこと、毎日を過ごしながら、あっこれはノートに書こう!っと常に意識して生活するようになると、子供たちのやり取りや、三人の遊び方を比べたり、言動や行動をよく見るようになって私も子供たちの発見が沢山出来るようになりました。先生方は忙しい中で私の毎日の長文を読むのは大変だったかと思いますが、必ず私の文章に関する返信とその日おやこであったことを書いてくださるので、それはもう交換日記のような。お帰りの時間、極上の笑顔で迎えてくれる息子と先生との交換日記。お迎えは楽しみ二倍でした。

そんな彼も当時四歳、次年度は五歳になります。お姉ちゃんが通っている区立の幼稚園に通うか通わぬか…この時期は、もぉとてつもなく悩みました。

お姉ちゃんはS1が入園する年には二歳差なので卒園してしまいますが、同級生にお姉ちゃんのお友達の弟妹が沢山いること、その弟妹たちもお母さん達もS1のことを知っていること、幼稚園の先生たちもS1を知っていること。区立幼稚園の園児の人数がここ近年減っていて少人数になりそうなこと。これらの要素を見たらS1にも幼稚園生活を楽しませてあげられるかと療育と併用でいけるかどうか、今まで全く考えていなかったのに違う選択肢が上がったことに彼の成長を感じました。

幼稚園では小さな行事が多く、その度に歌や合奏、踊りや劇、プールもあります。介助員が付いたとしてもほぼ一人で彼にそれが出来るのか、何より彼が楽しめるのか?

知的な障害もある彼にとっては健常児と同じに通えるのは多分幼稚園だけになるだろうなとど素人の私でも分かっていました。幼稚園は貴重な機会だと思いました。彼が少しの頑張りで皆と楽しく過ごせて成長できるのであれば母としてはどんなサポートでもしてあげたいと思っていました。ですが、言葉の出ない彼にとっては色々な壁があるわけで…大きなとこだとこの時期はトイレ問題。私や先生に時間で様子を見て誘ってもらってトイレでほぼ出来ていましたが、漏らしてしまうこともあります。自分で教えてくれることはありません。トイレが自分の意思でできないとプールは皆と同じものには入れません。ビニールプールで一人水遊び…大きなプールが大好きなS1には多分理解できずに怒り出す姿が目に浮かびます。あぁこれはきっと楽しめない!幼稚園は止めました。

貴重な機会だったかもしれない。でもS1にとっても貴重な大切な二年です。焦らずじっくりと見てもらえる環境を母が選びましたが、これがベストだったのかは分かりません。自分で決める事が出来ない彼の人生の選択を私が決めること、それはとても荷が重く今後も暫くそんな選択に迫られる日々が待っています。私が決めた選択が最善だったと信じて進んで行くしかない。そう信じます。

この時期のトイレトレーニングは未だに覚えています。二時間おきにトイレに連れていき座らせる。特に抵抗も無かったので座ってしたければ出るし、出なかったら三十分後のにもう一回誘って…っと家では常にタイマーを回していました。最初はおむつをはかせたまま行っていたので出てしまっていても、残念!位で始めました。濡れてなかったらおむつ一枚分約20円ラッキー!これでラッキー!が何度も続いてきたところでおむつを外してパンツでトライ!

四月にはおしっこについてはほぼ完璧になっていて自らトイレに行くまでになっていたので幼稚園のトイレ、プール問題はクリア出来ていたな~っと思ったのを覚えているのですが、そんなことより私の頭を悩ませたのはウンチ問題。おしっこは時間でなんとなく声を掛けて促すことが出来ますがウンチは…不定期企画なので促すことが出来ません。大体朝か夕方なので家で出るは出るのですが時間が見えないので彼の仕草やサインを見逃す頻度が多すぎてパンツにべったり…なんて事がほぼ毎日…しかも忙しい夕飯の支度の時間や朝食の支度の時間だったり…トイレでさめざめと一人泣きながらパンツを洗った日々。もしかしたら一生私はS1のパンツを洗い続ける事になるかもしれないのかなぁ…っと途方に暮れた日々。しかしそんな不安な日々は振り返ってみればほんの数か月で過ぎ去り、S1もパンツにしてしまうよりトイレでした方が楽なことに気づいてくれて、今となっては普通に自分で行きたい時に勝手にトイレに行くまでになりました。明けない夜はない!まさに体感しました。

S1五歳の年、私が転んで足を折り動けなくなる事件が発生しました。おやこの送迎に関しては最初は緊急一時で親子の先生に助けて頂いていましたが、この時期初めて”移動支援”のお話を先生から提案されました。母的には他人に頼むことが不安で、でも仕方ない…っという気持ちで移動支援の話を進めました。実際進めてみてどうだったか?いや、みんな使える人は積極的に使った方がいいです!っと大きな声で言いたいです。

本当に良いヘルパーさんに恵まれた事もありますが、家族や先生以外の他人と一緒に電車に乗る。外を歩く。S1にとって凄く刺激のある時間になったと思います。そして新しい課題も見えてきたりします。母と一緒ならば毎日が自転車の送迎ですし、お出掛けも歩きか自転車の範囲が主でしたが、ヘルパーさんとの移動は公共機関を使います。電車、バス、エレベーター・エスカレーター・車内での公共のルール、家族で電車に乗ることもたまにはありましたが機会は少なく、そういったルールを教える機会が少なかったことを実感しました。雨の日の移動も今まではカバー付きの自転車で、合羽を着せて歩くこともなかったですが、初めて合羽を着て雨の中を歩きS1も相当楽しんだ様子をヘルパーさんに伺うと、とても嬉しく思いました。私の骨折も無駄じゃなかった!しかし数か月で母の骨折が治ってからは移動支援は送り迎えでは使えません。でもこんな良い機会を、出会いを失くしたくなかったので月に一度にはなりますが”余暇支援”という形で週末に一日ヘルパーさんとお出かけする。という支援を使わせていただくことにしました。

発達障害があるとはいえ5歳の男の子を休日にわざわざ他人に預けて外出させる罪悪感が無かったわけではありません。葛藤はありましたが、使ってみて彼が楽しみ、そして多くを学ぶ姿に毎回使って良かったと思えました。そして毎回彼の次の課題を見つけて、母はまた対策を考え頭を悩ませます。これは今でも続けていますが本当に沢山の課題が見えてきて、S1に何が必要か、私に何が出来るのか毎回とても考えさS1れます。

この1年では、トイレは自分のタイミングで自ら行くようになりほぼ失敗なし、衣服の脱着も前と後ろをよく間違えますが大分上手になりました。言葉の指示も大分入るようになりました。生活のルーティンが出来てきて朝起きてからおやこに出かけるまでの行動がスムーズになりました。何より自分の意思を単語にはなりますが、言葉で伝えようとする姿勢が見えてきました。ばなな たべたい!あけて!かして!いやん。彼から発する言葉は要求の言葉が主ですが、自分の言葉で伝えてくれること、定型発達の子供たちに比べたら相当な牛歩ですが、彼にとっては大きな大きな前進です。

この時期はお姉ちゃんが年長さんから小学生に上がる時期でS1のことを何か説明した方が良いのかとても悩みました。障害名を伝えるだけでは理解することは勿論、ちゃんと伝わらないだろうし、何も言わないでも、彼女が聞いてきたらでいいのかなぁとも思っていたのですが、お姉ちゃんが年長さんの時期はS1君はまだまだ目も手も離せず、末っ子もチョコチョコ動く時期でこちらも目も手も離せず、私一人では三人一緒に幼稚園の園庭開放などで遊べる状態ではなかったので幼稚園終わりにお姉ちゃんのお友達数人とお母さんを我が家に呼んで我が家で遊んで貰っていました。

その中の一人の女の子が”どうしてS1君は四歳なのにしゃべらないし変な行動ばっかりするの?”っと皆がいる前で聞きました。私が答えようとすると、それよりも前に女の子のお母さんが慌てて”何てこと言うのよ!そんなこと言っちゃいけないよ。”っと彼女をしかりました。私は女の子が疑問に思って聞いて来たことよりお母さんのその反応に少し傷つきました。でももし私が、S1が定型発達児として何もなく生活していたら同じことを言っただろうなとも思いました。分からない、知らないことだから自分では答えられないし、その子の親も目の前にいる。女の子のお母さんは相当あせったと思います。すると娘が”S1はねーお喋りが苦手なんだよ。”っと言いました。

あぁ、そうだね。きっと娘の中ではそれが正解。今はシンプルにおしゃべりが苦手でいいのかな。っとも思いました。が、流石に娘だけでなく他の子供たちにS1について聞かれたときの準備をしていなかったので、聞かれたらどう答えるか考えておかないといけないかなと思った瞬間でした。この件についてはおやこの先輩ママに相談してみました。すると絵本を紹介してくれました。”すずちゃんののうみそ”という絵本です。自閉症と知的障害をもつ娘さんを持つお母さんが娘さんが通う保育園の園児向けに自分の娘について説明する内容になっています。最初その絵本を見たとき、涙が溢れました。そのお母さんの愛情や葛藤が垣間見えてとても胸に刺さりました。私はその絵本を他の新しく買った絵本と一緒に何も言わずに家の本棚に入れておきました。幼稚園から返った娘が新しい絵本がある~ママ読んで~っとその絵本を持ってきました。冷静に淡々と読むことに集中して読みました。娘の前で泣かないように。読み終わると娘が、この絵本ってS1君のお話なの?っと聞いてきました。なんでそう思うの?っと聞くと、この子S1君にそっくりだよね。と。そうだね。と私が言うと、そっか~S1君は脳みそが皆とちょっとちがうんだね~へぇ~面白いね~。そうなんだ~。っと何やら納得している様子。私から娘へS1の障害についての話は今現在も特にこの絵本以外していません。娘は娘なりに息子をよく見ていてそこから学習することも多々ある様子です。例えばS1に何かお願いするときは短い言葉ではっきりと。学校で中々話を聞いてくれない男の子もS1君に話すみたいにしたら聞いてくれたよ。なんて話が出てきたりします。S1に伝わる言葉で伝わらない人はいないんだね~っと。確かに。丁寧にゆっくりと短い言葉で、は誰にでも伝わりやすい。娘が私に教えてくれました。

娘の話になってしまいましたが、ついでにもう一つ、娘が幼稚園の時に一番仲良くなったお友達は奇遇にも三人兄弟の末っ子で、彼女の一番上のお兄ちゃんは発達障害があり小学校の支援級に通っている子でした。彼女のお母さんは私と年はほとんど変わりませんでしたが育児の大先輩になるのでS1の扱いもとても上手でとてもとても助けられました。今もお付き合いがあり相変わらず色々な場面で助けてくれています。私も何か彼女に返したいとずっと思っていましたが、そんな私の気持ちを悟ってなのか彼女に言われた言葉が今も私の中で残ってるので紹介させてください。彼女は私にこう言いました。

「私も自分の息子の時に先輩ママに沢山助けてもらったんだ。私は彼女たちに何も返せなかった。でも彼女たちは私にその分自分が先輩ママになったら他のママを助けてあげればいいよ。私たちもずっとそうやって色んな人に助けられてきてるのだからって言ってくれたんだよ。だから貴女も私に何か返そうとしなくていいんだよ。助けてあげられる人が現れたら手を差し伸べてあげてね。」っと。

私はとても人に恵まれたと思います。沢山の人が私を助けてくれて今の私がいます。私はこの先出会うであろう沢山の人たちに今まで助けてもらった沢山の感謝を少しづつ返していこうと思っています。今まで、自分のために、S1のために、家族のために、自分が何が出来るか考えてきましたが誰かのために。この先もし自分が出来ることで誰かの助けになることがあれば全力で取り組もうと思えた言葉でした。

さて、2歳半でりす組に入ってから3年…気が付けば6歳の年長さんになったS1くん。

4月からはぴかぴかの1年生です。あと少しで大好きな親子教室から卒室です。

最後の年がまさかの新型コロナの影響で親子教室もお休みになったり、お姉ちゃんも休校になりパパも在宅勤務になったり…っと通常ルーティンを愛する息子にとってはアレ?っとなる1年の幕開けでした。大分板についてきた余暇支援のヘルパーさんとのお出掛けも無くなり、どうしたものかと思いましたが出来る範囲で楽しめることを考えてやるぞ!っと早朝に子供3人を連れて近所の寂れた公園へ。姉は一輪車の練習、妹はストライダーの練習を、S1君は母とひたすらブランコと滑り台。ここで姉がやっていたのを見て滑り台の逆さ登りを覚えました。

私達しか居ない小さな公園で、早朝のひんやりとした気持ちの良い空気の中、子供達と遊ぶなんて今まで通りの生活をしていたら絶対に有り得ない事でした。もしかしたらこの先こんな風に子供達と皆一緒に公園で遊ぶなんてあと何回出来るのだろうなと思ったら、朝は支度にバタバタと忙しくはなりますが、とても貴重な時間に思えました。

以来今でも土日の早朝公園は私と子供たち3人の日課になっています。

四月当時はS1と公園でがっつり遊ぶ事が久しぶりで、どう遊んだら良いんだっけ?っと困惑する事もありましたが、慣れてくればS1君との公園遊びは成長の発見の連続!あれ?こんな事出来るの?おー!自らチャレンジするんだ。あーやっぱりこれは苦手なのね。と発見発見!それは姉や妹にも同じようにあって、一緒に過ごしていても知らない、見えてない事って沢山あるんだなぁと実感しました。

さて、今現在のS1君ですが成長と共に良いことばかりではなく困ったこともあります。

平均的な六歳児よりも身体が大きい故に力も強い!自我が出てきた事で思い通りにならない時に力一杯ひっくり返ります。今までは大人の力で抑え込むことが出来ましたがここまで力が強くなるとは…抱き抱えて場所を移動するにも一苦労の26k。母も日々筋トレが欠かせません。小学生前でこうなのに中高生になったら…軽い恐怖を覚えました。

何故?どうして?こんな行動をするのかな?いつも考えます。彼の行動には必ず理由があると思うので。母も試行錯誤です。あの言葉が良くなかったのか?言い方?伝わらなかった?あの場所が嫌だった?…何をされるのか何処へ行くのか分からなくて怖いのかしら?っとまずは写真でカードを作ってみました。公園や学校、病院、駅や大好きなマクドナルドもよく行く場所や行きそうな場所は写真に撮ってカードを作成してファイリング。これから何処へ行くのか、何処へ行きたいのか、カードを使って意思確認。カードをファイルごと全部見せると全部行けると思い込んでしまって大騒ぎしたりと失敗も多々ありますが、少しづつカードを使いこなしカードの意味を少しづつ理解してくれているようで最近はお出かけ先での意味不明なひっくり返りは減ってきたように思います。そしてカードの効果なのか最近はお出かけ前に行きたい公園を言葉で言ってくれるようになりました。

知的障害がある彼にとって成長と共に問題は更に増えてくると思います。頭を抱え悩む日々は絶対にある。でも一緒に考えて悩んでくれる先生に出会えた事、仲間に出会えた事、乗り越えてきた日々が彼と共に私をも日々強くしてくれました。合言葉は、やるっきゃない!なるようになる!

四月からは新しいステージへ!城東特別支援学校への入学が決まりました。一緒に、希望していた放課後デイサービスの第二こぴあくらぶ亀戸への入会も決まり、今はバタバタと入学準備に追われています。新しい学校の先生との面談で、兄弟のことを聞かれました。妹はマイペースなのであまり心配していないのですが、姉が優しく使命感が強いので、今後大きくなってから、私がS1をなんとかしようと思ってしまうのではないだろうかと心配だと言う話をしました。S1には自立して欲しいし、姉も姉の人生をしっかり頑張って楽しんで貰いたい。その中で助けてあげられるところは助けてあげて欲しいし、お互い付きすぎず離れすぎずでやってほしいんです。という話をすると、なんとその先生も二つ年下の弟さんがいらっしゃるらしく自閉症で今作業所で働いていらっしゃるとのこと。先生がお姉ちゃんと話したいわ~っと言ってくださった言葉の中に先生が今まで経験された私も知ることの出来ないきょうだい児としての葛藤が垣間見えた気がして、いつか本当に娘と話す機会を持ってくださる機会があったらお願いしたいなと思いました。

四月から母もまた新しい仲間との出会いを楽しみに、今日も母は息子と共に心も身体も強く!楽しく!元気よく!!周りの方々への感謝を忘れず、笑顔で前進します。

親子教室で過ごしたかけがえのない4年間。沢山泣いて沢山笑った4年間。

もっとずっとおやこに居た気がしますが何度数えても、たった4年でした。

S1の障害が分かってから、おやこに出会ってからの4年間が私の子育ての時間で一番濃厚な時間になりました。この先どんな試練や困難が待ち受けているのか見当もつきませんが、何かにつまづいて、先が見えなくなりそうになったら、この四年間を思い出してポッと心が暖かくなるような、先を照らしてくれる灯台のような素敵な時間になりました。

これは親子教室の先生方、出会ってくれた仲間たちのおかげです。本当にありがとうございました。

私の子育てはまだまだ続きますが、この先が気になる方は、どうぞこの先も仲良くお付き合いいただき、見守って頂けたら更に嬉しいです。

長い話にお付き合いありがとうございました。これで私のお話は終わります。