「私の子育て」Nちゃん

いちご組のNの母です。

2012年3月生まれ。もうすぐ6歳になります。

親子教室には10ヶ月の時から、約五年間お世話になりました。

まず、Nの障害名は先天性ミオパチーという筋肉の障害です。10万人に1人か2人と言われ、指定難病にもなっています。簡単に説明しますと、遺伝子の異常が原因で発症する筋肉の病気。発達、発育の遅れ、筋力低下を主症状とし、ゆるやかに進行する骨格筋を侵す障害です。治療法はありません。

異変は、生まれる前からありました。最初は順調でしたが、胎動が全く無いことに気がつき、検診のたびにそのことを言っていたのですが、元気に心臓は動いているし、おとなしいだけなのかも、と言われ安心していました。

後期になり、今度は羊水が多くなっているといわれ、心配ならエコーの専門の先生に診てもらいますか?と。週一でしか来ていないとのことで、予約も一週間後だったので、そんなに気にしていませんでした。

そしてエコーの日、先生は無言で30分ぐらいずっとエコーを見ていました。話しかけられる雰囲気じゃなかったので、何かあるんだなとわかりました。

先生からは、手の握り方がおかしいとのことで、普通赤ちゃんはグーかパーの握り方のようですが、娘は変なふうに重なっていたので、これは生まれつきの何かがあると言われました。その日のことは良く覚えています。バスに乗って帰ったのですが、バスを降りたとたんに、すべての色が白黒に見えました。本当にショックが大きかったんだろうと思います。

次の日すぐに大学病院に転院し、胎児MRI, 羊水検査などをしました。この時妊娠8ヵ月です。

いろいろな検査をしましたが障害名はわからず、生まれてくるのを待ちましょうとなりました。

誕生日は3月14日ですが、出産日をあらかじめ決めていました。NICUが空いていて、先生達もそろっている日を確認し、その日になりました。出産まで一ヶ月ぐらいあったんですが、その期間はすごく重苦しい時間でした。本当なら、待ち遠しくて仕方ないはずですが、生まれてくるのが怖かったです。自分も妊婦なんですけど、他の幸せそうな妊婦さんたちを見るのが辛かったです。

いよいよ出産の日、分娩室には先生や看護師さん、総勢10人以上の人達に見守られながら、やっと出てきた娘は、泣き声もださず、ぐったりしていました。すぐに挿管されてNICUへ。

数時間まって面会に行った時、沢山の線につながれて、うつぶせで動きもなかったので涙がでました。先生のお話では、呼吸が弱いので人工呼吸器を着けている、筋緊張低下、手指の硬縮もあり。どのくらいの入院になるか、月単位は確実で一年以上になるかもしれないとのことでした。わけのわからないまま、いろんな書類にサインをしました。その時は、どうしていいのかわからなくて、病室に居るのがすごく辛くて、新生児室の前には元気な赤ちゃんたちが居るので、その前を通ることはできませんでした。自分の両親と主人のお母さんが面会に来たときに、これからどうしよう。。と言って、泣きました。親の前で泣いたのは、それが最初で最後です。

次の日お祝い膳がでました。とっても豪華な食事だったのですが、全く何の味もしませんでした。出産おめでとうございます、というカードも添えてあり、心の中で、おめでとうじゃないよ、と思っていました。

退院した次の日から、電車にのって面会に行っていましたが、体もきつく、保育器の中でぐったりと横たわっているだけで、何の動きもない娘。正直、面会に行くのがすごく憂鬱でした。家で搾乳して冷凍にした母乳を届けに義務感で行っていました。私が初めて抱っこできたのは、それから2週間後です。その頃は人工呼吸器も外れていましたが、ミルクを口から飲むことはできませんでした。先生からチューブを入れる練習をしましょうと言われ、私はそのうち口から飲めるだろうと思っていたので、とてもショックでした。唾液すら飲み込めないとのことで、吸引も30分に一回ぐらいはしなくてはいけませんので、吸引の練習もしました。それを出来るようにならないと退院できないので、仕方なく覚えました。なんで、看護士さんがやることを、素人の私がやらなければならないのかと、とても悲観的になっていました。

NICUには、いろいろな子が居ました。授乳室もあり、小さく生まれた子は何グラム増えたかそのつど量ったりして、和気あいあいしてるようにも見えました。Nは授乳は出来なかったので、私はひたすら機械で搾乳していました。

看護師さんには、「赤ちゃんに沢山触って下さい。素手で触れるのは家族だけなので、赤ちゃんにも伝わりますよ」と言われました。看護師さん達は、いつも手袋をしていて、決して素手では触らないそうです。

少しずつですが、指を動かしたリ足先を動かしたりしていたので、少しでも刺激になるように、何か1つぐらいおもちゃを与えたいと思い、先生にお願いしたのですが却下されました。家族の写真を1枚だけ保育器の横に貼らせてもらいましたが、それもしぶしぶでした。なので、退院するまでの五カ月間は、何もおもちゃ等を触っていません。

入院している間にも、細かい染色体だとか、頭部MRIや、血液検査など、いろいろやりましたが、原因疾患はわからないまま、五カ月で退院しました。季節は春から夏に変わっていました。

退院するときも、江東区の保健師さんや先生や訪問看護さんと自宅でどうやって育てるか話し合いをしました。医療的ケアをしなければならない為、訪問看護師さんに来てもらいながら、なんとかやっていこうと。先生からは、「24時間の介護になるので、上の子は保育園に入れないと、生活が成り立ちませんよ。診断書はいくらでも書くので保育園に入れてください。」と言われたので、Nの介護という理由で保育園に入りました。首はすわると思うけど、その先はわからない。風邪を引くとすぐ入院になると思うから、風邪を引かせないように。外出も一日20分ぐらいなら、というお話でした。

外出も出来ないなんて、なんか重症なんだなあと、改めて思い知らされました。医療機器も家に沢山用意しました。サチュレーションモニターと言って、血中酸素を測る機械や、在宅酸素、吸引機など。退院出来ると思うと嬉しかった反面、日中は私1人でみなくてはならないので、とても不安でした。

Nには三歳うえのお兄ちゃんが居ます。退院するとき、一緒に来たのですが、やっと生まれて良かったねと、そばをはなれず、ずっとくっついていました。五ヶ月前に生まれてるんですけど・・・

いつも隣に座って絵本を読んであげたり、多少手荒いちょっかいを出したりして、お兄ちゃんの刺激が強かったのか、家に帰ってきてから、だんだんと動きが出てきました。あの小さい保育器に五カ月も入れられ、おもちゃ一つも与えられなかったので、なんの刺激もなく過ごしてきたのだと思います。

家でお兄ちゃんが騒いでいるのをじっと見たり、すごくゆっくりなんですが、足を上げたり、手を上げたり。そんな些細なことでもすごく嬉しかったです。訪問のPTさんにも週一回来てもらっていたので、首すわりの練習などをしてもらい、7ヶ月で首が据わり、1才でお座り、ハイハイはしないまま、お尻でずりずり移動していました。相変わらず、口からミルクなど飲めるわけもなく、1日6回チューブから注入して栄養を摂っていました。1才のときに二回、肺炎で入院しています。呼吸器も弱くて、痰が出しにくいので、すぐにぜこぜこになってしまいます。

親子教室に入ったのは、10ヶ月の時でした。だんだん動きも出てきて、このまま2人で家にいてもな、と思い、保健士さんに相談したところ、良いところがあると紹介してもらいました。

見学に行ったときは、え、ここ?と、ちょっと驚きましたが、元気な赤ちゃん達が居て、Nが一番元気ないなと思いました。りんご組の頃は。手遊びや歌など、とても興味深く、家でなんどもやっていました。

ぶどう組に進み、母子分離になり、週に2回の数時間ですが、とても有難かったです。

二歳半のとき、練馬区にある療育センターで母子入院を6週間しました。そこは親子で入院して訓練を受ける施設です。入院といっても6畳一間を与えられ、他の親子と一緒に食事をしたりして、合宿みたいな感じです。そこではPT・OT・STを集中的にやり、そのときに一歩、歩けるようになりました。自分の足で歩けるようになったNは、とても嬉しそうでした。

ですが、すぐに転んでしまいます。転ぶと腕の力も弱いので支えられずにおでこを打ってしまうことが多くなり、いつもたんこぶを作っていました。保護帽を作ったり、靴もハイカットのほうが良いとのことで、ネットで探したり、中敷も作成しました。

そしてその後に、筋生検といって、筋肉の組織を切り取り、組織の状態を見て判断する検査を全身麻酔でやりました。そこで先天性ミオパチーと診断されました。ゆるやかですが、進行性の障害です。

今も歩けても長時間は無理ですし、ジャンプしたり走ったりはできません。階段も手すりにつかまってやっと上り下りが出来る程度です。筋肉の障害って本当に厄介だなと思います。全身のいろいろなところに支障がでてきます。運動だけじゃなく、滑舌が悪かったり、表情を作る筋肉も少ないので、細長い顔が特徴で無表情にみえてしまいます。

もう一つ、私を悩ませているのが、場面かんもくという症状です。言葉の面では順調に出ていたので、安心していましたが、人前で話をすることが出来ません。家族や慣れている人の前では、ぺらぺら話します。この症状のせいで私はすごく悩んでいます。今もです。家でのNと、外でのNのギャップがすごくて、二重人格かと思うほどです。家では本当に良くしゃべるし、歌って踊ってとってもひょうきんです。行く先々で、「言葉は出てる?」「単語はいくつ話せる?」と聞かれ、そのつど説明するのですが、なかなかわかってもらえず、説明するのも嫌になってきました。

話しかけられても、体が固まってしまい声がでません。自分の意思で「話さない」わけではなく、「話せない」のです。これは誤解されやすいところです。小児期の不安障害と言われています。親子教室でも、いろんなお母さんや先生から話しかけられても、答えることができないので、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。でも決して、嫌で話さないわけではなく、本人も話したい気持ちはあるのですが、体がいう事をきかない症状なので、ご理解いただけたらと思います。

そんなNも、幼稚園に行くことになりました。本当は保育園に通って、私は働きたかったのですが、医療的ケアがあったり、病院通いや、訓練などが沢山あるので、断念しました。まだ鼻からチューブをしていましたので、幼稚園のことは、親子教室の先生にも相談したり、すごく悩みましたが、行ってみると思いのほか、楽しく通うことができました。

幼稚園に行く前は、まだオムツは取れていません。いろいろ他にやることが多くて、そのうちでいいやと思っていたのですが、先生から「幼稚園では、みんなパンツだから、Nちゃん自分だけオムツだと、わかるんじゃないかな、教室でやってみよう」と言われ、本格的に開始したところ、すんなりと一週間ぐらいで取れました。

年少の時は、幼稚園に週三回でしたが、毎日行きたいとの本人の希望もあり、年長では週四回で、親子を一回にしました。 幼稚園でも、みんなの前で話すことは出来なくても、運動会や子ども会など、歌ったり踊ったりするのは大好きなので、楽しそうにやっています。

お友達とも最初はちょっと距離を置いていたようですが、だんだんと仲良いお友達も出来、最近はふざけあったりしています。加配の先生が付いていただいていたのもありますが、このまま小学校も普通級で行けたら良いなあという考えになっていました。

主人も同じ考えだったので、就学相談も普通級を希望しました。予想通り、就学相談の発達検査では何も言葉を発せず、判定不能です、と言われてしまいました。主人は私と違ってとても押しが強いので、ここぞとばかり携帯の動画を心理の先生や、面談の人に見せて、家ではこうですとアピール。2次でも言葉は発しなかったのですが、先生の指示で字をかいたりしていて、理解はあると判断され、普通級判定となりました。

この結果が本当に良かったのかどうかは、わかりません。何事もやってみないとわからないと思います。

生まれた時は重症で、このまま寝たきりかもと言われていたけど、歩けるまでになったし、自分の唾液すら飲み込めなかったのに、ご飯も食べれるようになりました。ただ、食事の面では今はチューブはしていませんが、摂食障害があるので、この先もどうなるかはわかりません。

NICUで診ていただいていた先生に先日会った時も、こんなに元気になるなんて、と、とてもびっくりしていました。

この6年間、ミオパチーと場面かんもくという2つの症状に悩まされ、戦い続けてきました。本人もだんだん自分の体のことをわかってきています。

これからいろんな事が起きるとおもいますが、そのつど考え、悩みながら家族みんなで支え合い、楽しく過ごせていけたらいいと思います。

生まれた時の絶望感は、今の私にはありません。あの頃の私に伝えることが出来るならば、未来は明るいよと言いたいです。

わがままでがんこですが、素直でかわいい女の子に育ってくれました。今では本当にかわいいと思えます。

障害があっても、生まれてきて良かったと思ってくれたら、こんなに嬉しいことはありません。

そして、親子教室の先生方には、大変お世話になりました。なかなか居ない稀な障害なので、対応するのも難しかったと思いますが、温かく見守って頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。

親子教室に通えたことで、私自身も、ほっと出来る場所が出来ました。