「私の子育て」Hちゃん

こんにちは。ひまわり組のH・Oの母親です。Hはダウン症のある6歳を迎えた女の子です。

この春に、Hは親子教室を卒室し、小学生となります。これから、主に二つのエピソードについて、お話させていただきたいと思います。まず1つは、出産をして、うまれた赤ちゃんがダウン症だということがわかって、

現実と向き合い、それをなんとか受け入れるまでのこと。そしてもう一つは、Hが幼児期にはいって、ダウン症のある子の育児がしんどくなったとき、信頼できる周りの人たちに相談して、助けてもらったことについてです。今から話すことが、何か皆さんの育児に参考になればと思います。

私は、2012年1月29日にHを出産しました。

妊娠中の経過は順調で、つわりも軽く、フルタイムの仕事も、臨月まで休むことなく続けていました。

産後も復帰の予定でしたので、妊娠初期位から、近隣の保育園を見学していました。

おなかの子供に障害があることは、妊婦健診でも指摘されず、また特に染色体の異常も夢にも思わなかったので、検査を受けることもなく、主人と旅行へいったり、友達と遊んだり、幸せな妊婦生活でした。

そして、月満ちて2012年1月29日に出産日を迎えました。出産は、近くのクリニックでした。

出産の数時間後、ようやく赤ちゃんを出産したと一息ついていたことろ、

生まれた子供の顔つきや体つきから、もしかしたらダウン症の可能性があるかもしれない、

という話を医師から聞きました。そのとき、わたしはダウン症の可能性があるかもしれない、かもしれない、なら絶対大丈夫だ。

あとで、違かった、心配して損した、になるはずだ。と根拠もなく思いました。しかし翌日、小児科医の判断のもとダウン症でほぼ間違いない、ということがわかりました。強制的に現実と向き合わなければならず、この時たくさんの思いが溢れました。

果たして、愛せるだろうか?

ダウン症って、あのいわゆる知的障害のある人たちのダウン症?

この妊娠をさかのぼって、リセットできないだろうか

会社で仕事していた日々にはもう戻れないのだろうか、

そもそも、なんでこんなことになってしまったのか

疑問と、現実逃避の思考が、かけめぐりました。出産後、3日間は、病室で一人の時に、布団をかぶって泣き続けました。

入院期間中、人と相対しているときは、自然と普通の態度になり、そして一人になったとたん涙がこみ上げてくるという状態を繰り返していました。泣きつかれて頭が痛くなるほどでした。主人や、主人の母、私の姉と、当時まだ生きていた父、が病院へお見舞いにきてくれたときは、絶対に涙をみせまい、みせたくない、という気持ちで、自然と感情を消し、ここが自分の踏ん張りどころだ、と気持ちを奮い立たせて対応した記憶があります。出産後、1日2日では、ダウン症の育児も全く何も知らない状態でしたが、

ネットで検索した情報で、さもわかったようなふりを必至でしました。

当時の私は、「ダウン症だとしても、合併症も今の時点ではなさそうだし、このクリニックを退院したら、近くの墨東病院で検査をしてもらい、フォローしてもらうので大丈夫です。」「ダウン症があっても、保育園に預け、普通に育てて、仕事はできるだけ産む前と同じように続けたいと思います」などと、たんたんと話していたことを思い出します。けれど、出産後三日間は、ダウン症の赤ちゃんのいる、新生児室には入れませんでした。新生児室のガラスの窓から、寝ているHの足の裏をちらっと見るくらいで、すぐ病室に戻っていました。自分の産んだ赤ちゃんを見るのが怖かったからです。嘘だと思いたかったからです。

赤ちゃんのお世話の仕方もしりません、母乳の上げ方もわかりません。出産後、2日もすると、胸が張ってきてすごく痛いのですが、自分の赤ちゃんの顔を見るのが怖い、体をみるのが怖いと、現実逃避をして、一人、病室で過ごしていました。

今振り返れば、ダウン症云々の前に赤ちゃんの世話をしなければならなかったと思いますが、それを強制することもなく、Hの世話をしてくれ、見守っていてくれたクリニックの看護師さんや、医師に、感謝しています。

出産から3日後、ようやく勇気をふりしぼって、新生児室へ一人向かいました。

新生児室へ入り、「Y・O ベビー女児」 とネームタグが、ベビーコッドにかけられた赤ちゃんを見ました。顔つき、体つきを見ました。隣のコッドに寝かされている健常の新生児とは明らかに異なり、衝撃をうけました。体が震えて涙がこみ上げましたが、必至でこらえて、赤ちゃんのお世話の仕方を教えてもらいました。

自分が出産した赤ちゃんがダウン症である、という現実と向き合えたのは、おそらく3日間、泣くだけ泣いたのと、こんなこと、つまり自分の子供がダウン症ぐらいで、へこたれてたまるか、という怒りが、自分のエネルギーになったからだと思います。

勇気を奮い立たせて、新生児室に初めて入り、娘のお世話をしたこの日、ダウン症云々の前に、まず、赤ちゃんのお世話を頑張ろう、と思えたこの日が、私が出産の現実と向き合い、ダウン症という現実を受け入れ、一歩を踏み出せた日のように思います。

なぜならこの日以降、私は子供がダウン症という理由で泣いたことは一度もないからです。

話は変わりまして、二つ目のエピソードに入りたいと思います。

ここからは、親子教室とつながってから、そしてHが幼児期を迎えたときに、育児がしんどくなった時の事について、振り返りたいと思います。

育児になった時期、それは4歳台後半です。ちょうど、去年の今頃がピークでした。

Hは一週間のうち4日は、保育園に通い、一日は親子教室に通うスタイルなのですが、そのころ保育園の朝の登園が、毎日とてもとても大変で、私は疲労困憊になっていました。夕方の保育園のお迎えも、Hの支度が遅く、帰宅に時間がかかるので、憂鬱になっていました。去年の今頃のHは、朝、保育園の玄関に到着すると、逆方向にある小学校へと猛ダッシュします。そして、校門の前にたち、校庭と校舎を眺めて、そして、また違う方向へダッシュします。何度呼びかけても、追いかけっこを楽しんで保育園の玄関に向かう気配がありません。

保育園の玄関に入らず、小学校へ向かったり、別の方向へダッシュする日々が数か月は続いたと思います。保育園がいや、というよりも、いやいや期と、自分がなんでもできるし、興味があるから手はださないで、といった2-3歳児の特徴的な行動、プラス、切り替えが苦手なので、次の行動に移ることが困難を極める、という性質が顕著に現れた時期でした。

Hのいやいやは、そのころ朝起きた時からはじまりました。まず、起床時から、機嫌がわるい。主人に対して「あっちへ行け」などという。

起きない、着替えない、顔もふかせない、髪の毛もゆわかせない、そして家をでるギリギリの時間までリビングでテレビにかじりつきます。こちらが呼びかけても玄関まできません。靴下を履かない、くつを履かない。すべて、いや、やめて、やらない。

私も怒鳴ります。「Hもう時間なの」「時間ないの」「お母さん会社遅れると困るの」「保育園しまっちゃうよ」「H今日保育園休む?」どんどん顔もけわしくなります。いま思えば、Hのきもちが、朝のしたくに向かわないだけなのに、こちらの意図を一方的につたえ、

怒鳴っていただけでした。保育園は、家庭で保育ができないことを理由として、利用できるので、会社までの通勤時間、始業時間、退社時間、きっちり申請して、預ける時間とお迎えの時間が決まります。なので、朝、余裕をもって、30分早く預ける、ということができません。

これが、切り替えに時間がかかるHに、朝、時間通りにきちんと行う、行わせる、という毎日を送るのがどれだけ大変なことなのか、ということを4歳台の後半に骨身にしみました。親に精神的な余裕がないと、難しいことだと心底実感しました。それでも毎日、毎朝、家の玄関からでて、保育園に向かわねばなりませせん。そこで、Hと一緒に家を出る、それも楽しく出るにはどうすればいいかを考えました。

そうだ、いつもしんどい思いをする、家の玄関で、遊んで楽しい気分にさせれば、玄関からスムーズに出せるかもしれない。

100円ショップで色とりどりの、マグネットシートを購入し、動物や果物の形にカットして、玄関のドアの内側に張り付けることを考えました。そして、マグネット作ったキリンや、クジラをはり、キリンさんにリンゴをたべさせて~などと言って、Hを玄関まで尾曳だすことを考え、実行しました。うまくいきましたが、3日で私もHもあきました。私の余裕がなくなりました。

次に頼ったのはスマホです。スマホはすごく役立ちました。スマホのユーチューブで、Hの好きなノンタンや、しまじろうを見せ、リビングから玄関まで連れてきます。そして自転車にのせます。保育園についてもずっとスマホを持たせて画面を見せていました。

そうしないと去年の今頃のHは歩かないし、言うことも聞かないし、仕方がありませんでした。

そんなある日、スマホを見せるという条件で洋服を着替えさせ、身支度をして、靴下をはいて、靴をようやく履いて、さあ、玄関からでるぞという矢先に、Hは急においかけっこをしたい気分になったのだと思います。あれだけ苦労してはいた靴を瞬時に脱ぎすてて、リビングへ猛ダッシュで、逆戻りしました。さらにリビングの隣の部屋の和室にはいって、かくれんぼをして私の反応を楽しんで待っています。私も靴を履いている状態です。玄関から呼びかけますが、決して玄関に戻ってきません。

5分待ちましたが戻ってきません。朝のいそがしい時間にです。保育園に預け入れたら、今度は私が出勤せねばなりません。仕方なく、私は靴を脱ぎ、家にはいり、また一からなだめてすかしてHと玄関からでる作業を行いました。この日は、保育園ついて、玄関にはいっても、靴を脱いで上履きを履くのに、ものすごく時間がかかりました。あとから保育園に来る健常の子供達は、当たり前のように、流れるような動作で靴を脱ぎ、下駄箱にしまい、下駄箱から上履きをとって履き、まっすぐ教室へ向かいます。あとから来る子供達と親は、どんどん先に教室に入っていきます。いつまでも玄関のたたきにいる私たちとは、何か、途方もないような違いを感じました。

こういう日が毎日のように積み重なり、次第に、朝保育園へ預け入れをするとき、はらはら、もやもやした気持ちになり、スムーズにいかないHと自分をみられたくない、という気持ちが、強くなりました。

夜のお迎えの時も、朝の預け入れ同様、スムーズにはいきません。私がお迎えに行くと、先生にさようならをしてから、突然廊下をダッシュして、小さい子のクラスに面白がって入ったり、あるいは職員室に入りこんだりします。靴を履いて帰るどころか、そのまま下駄箱によじ登ってしまったりと、ひとつひとつの行動が全く帰宅に結びつかず、時間がかかるようになりました。私としては、夕食の支度や、お風呂、歯磨きに寝かしつけに洗濯と、帰宅してもやることは山ほどあるのに、どうしてこの子は、親が帰ろうといったら帰る、というこんな簡単な行動ができないのだろうかと思いました。

次第に会社が終わっても、まっすぐ保育園へ向かわず、自宅へ帰り、あやしまれない程度に過ごしてから、お迎えにいくことが増えてきました。そんな日々が続いていた頃、これではまずい、落ち込むばかりだと、思い、勇気を出して、担任の先生に、本音で相談をすることにしました。

担任の先生は、園長先生も交えて、1時間近の時間を割いて、相談にのってくれました。

園長先生は、朝の支度については、イラストなどに描いて、子供の視覚に訴えるのがいい、とアドバイスをしていただきました。そしてこどもの行動の一つ一つを、全部できて100点だったらほめる、のではなくて、10でも20でもできたら、そこをすかさず笑顔で認めるという働きかけをすると、いずれ、ここだという場面で、子供も理解できるようになる。とお話してくださいました。園長先生は「みなさん、障害のあるなしにかかわらず、保育園や幼稚園に登園するのは、苦労しています。なんでも言われなくてもできるお子さんはいるにはいますけど、ほんとに少ないです。ごく一部です。」とおっしゃっていました。

このとき、ちょうど、親子教室での面談の機会がありました。すかさず、朝、家の玄関でHに靴を履かせて、保育園に連れていくのが大変だと話したところ、中川先生から言われました。

「お母さん、靴をはいて玄関をでることが目的ですか?」

「目的は、何ですか? 保育園にいくことが目的ですよね?」

そして中川先生は、

 「Hちゃんが、玄関を出て、保育園へいくことがイメージできるといいですね」とおっしゃいました。

当時、私は朝、なんとしても玄関からHを出すことしか考えていませんでした。玄関から出て、その先の保育園でのことを、まったく考える余裕すらなかったのです。中川先生のアドバイスは、目からうろこが落ちたような気分でした。

保育園の先生と、親子教室の先生に頂いたアドバイスを受け、まず、朝の支度を、イラストで視覚にうったえてみることにしました。当時4歳のHは、おむつだったので、排泄についてもイラストにして、Hに見せるようにしました。

保育園の生活のイメージについては、保育園での一週間の予定が、廊下に掲示されるので、スマホで撮影して、しっかり把握することにしました。食べることが大好きなHなので、献立表もあらかじめ見るようにし、保育園の給食の話をするようにしました。また、保育園のお当番が大好きで、意欲的だと担任の先生がおっしゃっていたのを思い出し、「今日のお当番は誰だろうね?Hかな?」といった会話や、「今日はお休み誰だった?」「今日はホールでダンスレッスンやったの?」など、保育園に関して、Hがわかりそうな言葉で、会話をすることにしました。また、保育園の教室で歌う歌の歌詞や、製作物をスマホで撮影し、それをHと一緒に家で見たりしました。

Hが実際に過ごしている世界を、共有しようと努めました。

ちょうどそんなとき、まだ保育園に預け入れるが楽にならずに、しんどかった頃なのですが、朝、保育園でHと別れ、先生に預けるときに、心にもなかった言葉が、急に私の口をついて出て気ました。その言葉は、「お母さん、今日の夕方、Hのお迎えにいくの、楽しみにしているよ。Hに会えるから、お迎えを楽しみにしているからね。」というものでした。いいながら、え?私何いってるの?お迎え最高に面倒くさいし、しんどいのに、ここまで真逆の言葉がよく出てくるもんだ、と思いました。

けれど、この言葉を言った瞬間、Hの表情が、嬉しそうに柔らかく変化しました。そして、その後の行動がスムーズになったように思えました。当時のお迎えは全然楽しくなかったのですが、再び、試しにこの言葉をかけた日は、なんとなく次の行動がスムーズに変化していくように思えたので、それからは毎朝、「今日のお迎えを、すっごく楽しみにして待っているね」と、声掛けをするようにしました。

そうしていくうちに、朝の支度が、少しづつ変わってきました。毎朝、楽しい一日がイメージできるように、働きかけることによって、ゆっくりと、半年くらいかけてですが、朝起きてから、保育園に預けるまでが、本当にスムーズに変化していきました。おそらく、イラストで、朝の身支度を視覚化することで、Hの中で、朝は身支度をして、家を出るというイメージが、できてきたのだと思います。そして、家を出て、保育園へ行ったら、お当番をしたり、お友達や先生と遊んで、おいしい給食を食べる。夕方になれば、母親が楽しみに、自分を迎えにくる、という理解が、ゆっくりとできてきたのだと思います。

最近では、朝 「おとうさん、お母さん、おはよう」といって、自分で起きてくることが増えてきました。排泄については、おむつもとれました。「朝いちばんは?」とこちらが聞くと、「朝いちばんの、トイレ」といって、自らトイレにいくようになりました。

朝ごはんは、主人がトーストを焼いてくれのですが、「おとうさん、ありがとう。頂きます」といってトーストを食べるようになりました。私が、「H、ミルクあっためる?」と聞くと、「うん、ありがとう」などと、去年では考えられないほど素直な言葉が聞けるようになってきました。

時には、朝、保育園の玄関で、上履きを履くのにものすごく時間がかかときがあります。

あとから保育園に来る子供達は、当たり前のように下駄箱から上履きをとってはき、まっすぐ教室へ向かいます。

ですが、去年、しんどかったころに感じていた、気持ち、はらはら、もやもや、みられたくない、という気持ちは、今ではほとんど、まったくといって良いほど感じなくなりました。

それは、ゆっくりだけれども、Hが一歩一歩確実に成長していることが実感できていることと、わたし自身、身近な信頼できる人たちに相談して、自分と子供には見方がいるのだと実感できたことが、大きいと思います。あのとき、保育園の先生と、親子教室の先生に相談して、本当に良かったと思っています。

長くなりましたが、うまれた赤ちゃんがダウン症がということがわかって、現実と向きあった、エピソードと、ダウン症のある子供の育児を通して、身近な信頼できる人たちに相談して、子供も自分も成長できたというエピソードをご紹介させていただきました。

最後になりましたが、私が育児を通して学んだこと、それは、困ったときに相談する「勇気」です。

ご清聴ありがとうございました。