親子教室に出会うまで
Aは2009年11月10日予定帝王切開で昼の12時8分に2844gで生まれました。
妊娠に気づいたというかわかった日は5月12日、3月下旬位から頭が痛い、胃が痛い、寒気がする。という事が4月末になっても続いていて、さすがに病院に行こうと思い5月12日に胃の超音波と胃カメラの検査をする事に。最初は超音波の検査から。下腹部も見てみようということになり見てもらうと、「胃カメラ中止ね?」と言われて、何で?と思っていたら、先生が、産婦人科に行ってね?と言うので、そこで妊娠を知りました。
とりあえず午前中でまだ間に合う住吉の婦人科クリニックへ行き診察してもらうことに。
元々生理不順で前回の生理の記憶は遥か彼方、遡る事7ヶ月前。当然ながら最終生理なんて当てにならず胎児の大きさで大体の週数を算定。12週と診断されました。頭痛薬に胃薬の乱用、酒、タバコと体に悪いことのオンパレード。A君。本当にご免なさい。母ちゃん今日から全部止めるから許してね?病院からそのまま区役所に行き母子手帳と無料検診票を貰いました。
10年前と7年前流産した事もあり、仕事は倉庫で重いものを持ったり高い所へ登ったりの作業だったので、無理をしないように、きっとこれが最後の出産になるかも知れないと思い、翌月退社する事に。
忘れかけていた妊娠に、周りからはもしかして更年期で寒いんじゃないの?とか、夫や息子から、「ばばあだな。」だの「女としてオワタ(笑)」だのと言われほんのり傷ついていました。とはいえ久々の妊娠。心は宝くじが当たったかのような喜びでした。
婦人科クリニックでは出産できないので、産科を受け持つ病院を紹介してもらうことに。里帰り出産だけは避けたかったので、病院が決まるまでの1ヶ月間、その当時ニュースになっていたお産難民になるんじゃないかとやや本気で考えてしまいました。同愛記念病院で受け入れてもらえて、里帰り出産もお産難民も回避できほっとしました。
14年前、里帰りした時は出産を反対され我を通し反対を押し切った形での出産。もちろん歓迎ムード無し。しかも普通分娩から緊急帝王切開に切り替え。陣痛促進剤の痛みと脊髄増位の背中にバーベキューの金串を刺されたような激痛のダブルパンチ。術後は後産と麻酔が切れて傷口が痛むダブルパンチでした。
前回から14年経とうが手術しているので予定帝王切開になり、誕生日は11月10日に決定しました。
経過は至って順調。胎動も感じるようになり幸せいっぱい元気いっぱい。しかし8月に入ると、糖尿の検査をする事に。検査の前日絶食。妊婦なのに。採血して激甘の三ツ矢サイダー的な炭酸を200ml飲まされ1時間後と2時間後に採血。
結果は異常なし。検査代1万2000円のお支払いでした。
妊娠中体重を増やさないようにとウォーキングしたりして、体重の増減はまさかの-1キロ。何と体重を増やすことなく赤ちゃんを育てることに成功。今の私に早急に欲しい体力と気力。やればできる子なはずなんです。たぶん。誰か私のやる気スイッチ押してください。
出産前日の午前9時に自転車で病院に。外は晴天。いい気持ち。まさか妊婦が自転車乗ってるとは誰も思わないでしょう。しかも翌日出産の妊婦が。入院用品を前かごと後ろにくくりつけて。一人ぼっちの入院です。
病院に着くと、入院手続きをして産科病棟へ。翌日の説明を聞いて翌日に備え色々な下準備をして、翌日いざ手術室へ。脊髄麻酔・・・14年前の恐怖が。ん?痛くない。普通にチクッとしただけ。
あまりのあっけなさに、緊張の糸が解け、せっかくだから、手術室を見回すか。と、思ったのですが、視力が悪すぎて、何も見えません。うっすらとメスでお腹切られたな・・・とかかすかに感じる感覚を楽しみ?ながら約1時間。無事に生まれてきました。元気な泣き声。メガネを掛けて貰い見せてもらった赤ちゃんは、うん。素敵なガッツ顔。思わず「ぶはっ」と笑ってしまい、先生に「笑わないの」と怒られてしまいました。見たまんま、五体満足だったから笑う余裕があったのでしょう。
10日間の入院中、硬蓋膜麻酔で3日間傷の痛みを感じることなく過ごし、お風呂に入ったとき傷口を見ると・・・でっかいホッチキスの針と糸と、透明で皮膚にぴったりと張り付いたシート。思わず人ってこんな雑(失礼過ぎ)でもくっ付くんだな・・・と感心しました。しかし、5日目に痒くなり半分抜鈎し、7日目にまた抜いて、翌日に抜糸しました。とりあえず何かの金属アレルギーだということが判りました。
翌日横殴りの雨の中、迎えに来た中二のお兄ちゃんに荷物をタクシーに積んでもらい、家の前まで乗せてもらいました。家に入って冷凍庫を見ると、お兄ちゃんや夫に作った夕飯や朝ごはんのおかずが手付かずでそのまま残っていました。かなりショックでしたが、気を遣って残しておいたんだな。ということにしておいて、買い物に行かなくて済むな。と前向きに受け取ることにしました。
軽くショックを受けた心を落ち着けようと、タンポポ茶を飲んでいたら、突然、息苦しさと動悸、腹の底から沸々と湧き上がるような何とも言えない不快な不安。どうして良いのか判らなくなって、プチパニックになりました。とりあえずお茶を少しづつ啜り「はぁ〜」っとおじさん張りのため息をつきながら飲んでいると、落ち着いてきました。元々が能天気な性格のため、少々切り替えが早いようです。今考えると、直感で障害を感じたのではないかと思います。1ヶ月、3ヶ月、6か月、9か月と特に発達の遅れも見られず、はいはいもとても上手に、掴まり立ちも上手。11ヶ月頃にはよちよち歩きをし始めました。
その頃、また胃が痛くなり、どんどん痛みが増してきて、妊娠したときのもやもやとした感じではなく、刺しこむ様な痛みが続いていました。Aの1歳の誕生日の後、痛みに耐えられなくなり、しぶしぶ病院に行くと、急性胆のう炎との診断。出来れば即、入院して欲しいとの事。両方の実家は秋田と群馬で両親とも働いているため、支援は見込めず、主人も休みを取ることは人員的に不可能。Aを連れて通院して、点滴で痛みを散らし様子を見ることに。しかし、通院を始めて3日後の深夜、胆のうの辺りで風船が割れたかのような感覚と激痛が。しばらく動けないでうずくまっていました。夫に、「もう、限界。救急車を呼んで良い?」とメールしました。仕事がまだ終わってないのか、返事なし。10分後救急車を要請。とりあえず、お兄ちゃんにAを任せ、救急車へ。階段が狭く、自力で降り、下で待っていたストレッチャーに乗せられ救急車へ。ちょうどその時主人、帰宅。メールを見ていないのか、「なんで?」って顔してました。搬送先は受診していた同愛記念病院に決定。自分で呼んでおいて何だけど、救急車の乗り心地はあまり良いものではありませんでした。自宅においてけぼりにされた主人は、119へ電話し搬送先を調べてもらい、起きてしまったAを連れて、タクシーで来てくれました。救急病棟で、説明も無く先に行ってしまった事に少々キれていました。入院の準備をするため、一旦自宅へ戻り翌朝入院手続きに来た主人はさらにキれていました。帰って入院の支度をし、朝一で会社の各方面に電話をして何とか休みを貰い、群馬の実家に電話をして、無理を承知でAを迎えに来てもらって群馬で預かってもらうためのお願いの電話をして、ほぼ徹夜の状態で突然降りかかった災難に対処していっぱいいっぱいだったからだと思います。ベッドに乱暴に放り出すような感じで置くと、弾みでAがベッドから転がり落ちてしまい、大号泣。さらにイライラした主人は、「お前もちょっとは動けよ!」と怒鳴りAを抱き起すとまたドスンと私の腿の上に置くと、入院手続きに行ってしまいました。手続きが終わると、主人はAを連れてさっさと帰ってしまいました。自業自得というか、我慢し過ぎたせいか、入院日数も2週間から1ヶ月に延びてしまいました。メールで、「ごめんね」と送ると、「俺も悪かった」と返事が返ってきました。
腹腔鏡手術で全身麻酔。もしも、何かが起こって万が一死んだときのことを思い、携帯に遺書的なものを残しました。通帳や印鑑、支払い等の諸々、そして、再婚のこと。再婚は元カノとしてほしいと相手限定で書き残しておきました。
無事に手術が終わり、気が付くと夜らしく、お腹があっちこっちから殴られたかの様な、筋肉痛のような鈍い痛みがありました。術後回復室から病室に戻ると、速攻メールの遺書を消して証拠隠滅をしました。術後1週間で退院。そのままAを迎えに群馬に直行。久しぶりに会った息子は・・・あんた、誰?的な顔をしていました。どうやら母を忘れてしまったようです。でもすぐに抱きついてきたりしたので、忘れたわけではないのかな?と思いました。掴まりながらのよたよた歩きから、どこにも掴まらずヨチヨチ歩きに進化していました。しかも、「ころっころっ」と言いながら、くるくる腕を回し糸まきまきの歌に合わせて踊っていました。主人とお兄ちゃんと合流し、お正月を家族で過ごし、東京へ戻りました。夜寝るとき、2〜3日夜泣きをしたもののすぐ落ち着いていつも通りの生活に戻りました。
震災の後、紙おむつが手に入りにくくなり、ぱんぱんになるまでおむつに吸わせて使用。ぐにょぐにょして気持ち悪い筈なのに、平気な顔をしていたのが気になりましたが、しばらくそのままにしていました。1歳半検診は、ちょっと言葉が遅いかな〜と思いましたが、コップで飲み物飲めるし、ひとりで上手に歩けるし、とりあえず呼べば振り向くし、そこそこ出来ているから大丈夫。しかし、2歳の検診前、保護者の記録にはい、いいえ。の丸をつけていると、言葉のほかに、出来ない項目が出てきていて、保育園に通っていたお兄ちゃんと違って、行っていないから遅いのかな?男の子だから遅いのかな?とか、思いました。その頃、換気扇や室外機、車のタイヤに興味を持ち、車道に飛び出そうとしたり、回っている室外機に指を入れようとしたり、自宅の換気扇の羽を台所のシンクに上手によじ登り外したりと目が離せなくなりました。外へ出るときは、迷子ひも付きのリュックを背負わせ、散歩していたのですが、振りほどかれることが多くなり、仕方なく紐を犬用の伸縮リードに付け替えて外に散歩。傍から見ても少々目立つ格好で、ネグレクトを疑われかねない状況に耐えられなくなり、日中外に外出する事が減っていき、外が暗くなってから散歩に出かけるようになった結果、だんだん昼夜逆転の生活になってしまいました。動きもどんどん激しくなり、物音がうるさくなり始め、夜8時過ぎると外へ出て、木場公園の北の広場で遊んだり、小名木川の遊歩道をひたすら往復したり、深夜や雨の日は、自転車の後ろにベビーカーのレインカバーを付け、砂町のラウンドワンのゲームセンターでうろうろしたり、スカイツリーや浅草、上野、秋葉原、水天宮、東京駅方面や、お台場方面への深夜の自転車ドライブしたりしました。しかし、下の階に水漏れさせてからだんだん苦情がひどくなり、事あるごとに嫌味を言われたり、下で待ち伏せされて怒られたりとトラブルが深刻化していきました。その頃ようやく3歳児検診を受け「発達に遅れあり」と診断されました。2歳から3歳半頃がI家にとって一番暗黒の日々でした。
おやこ教室を紹介され、4月から通い始め、先生の勧めで東部療育病院へ行き、広汎性発達障害と軽度の知的障害と診断されました。まだまだトラブル続きで心が病みかけていて、夜中に玄関のドアを足跡が付くぐらい蹴飛ばされ、精神的に限界に来ていたため、引っ越すことに。お互いに顔も見たくない状態だったため、不動産屋さんから伝えてもらい引越しをしました。私たちの育て方が悪いと突っかかってこられていたので、私たちの育て方ではなく、障害があるがための遅れであったり行動であったことを最後まで分かって貰えなかった事がとても悔しくもあり悲しかったです。でも、自分たちのせいではないと思おうと、すこし気が楽になりました。正直、上の子の時は育児より生活するのに必死で、子育てらしいことはしていなく、自分の感情に任せて怒鳴り散らしたりして、自分が育てられて嫌だった事をそのまました時もありました。さすがに殴ったり蹴飛ばしたりはしませんでしたが、いい親ではなかったと思います。それでも、とても優しい息子に育ってくれました。今回振り返ってみて、2人の子供を産んだ事を後悔したことは一度もありません。その思いだけは唯一人に誇れることだと思っています。これからも色々な事があるかもしれません。でも、おやこで学んだこと、これから学んでいくことを糧にして育てていけたら良いと思います。